メルブ遺跡【トルクメニスタン】
紀元前6世紀から、アケメネス朝ペルシャの支配下にある一オアシス都市として繁栄し始める。
当時は、「マルギアナ」と呼ばれていた。「マルギアナ」の遺構は、円形のプランをもち日干レンガの城壁で囲まれた「エルク・カラ」として知られる。「エルク・カラ」は、12haに達する都市であった。
その後、セレウコス朝時代をへて、前2世紀〜後3世紀のパルティア時代に、「エルク・カラ」を北辺に組み込んだおおむね一辺1.8~9kmの方形に近いプランの「ギャウル・カラ」が築かれた。
面積は、約3.5kmで、城壁に囲まれ、十字に交差する道路で街区が造られていた。
「ギャウル・カラ」の外側にも、楕円形に近い形に城壁がめぐっていて、内側の城壁から外側の城壁への距離は、北へは3km、東西、南方向へは、3.5kmであり、総面積は、 60kmに及んだ。メルブには、紀元後1世紀頃に仏教が入ってきたと考えられ、当時の仏塔や僧院が残されている。
1962年にソビエト連邦科学アカデミーの調査団が、8.5cmの仏像の座像と土器に入った経文を発見している。経文は、白樺樹皮にサンスクリット語で書かれていた。「ギャウル・カラ」は、サーサーン朝の滅亡する7世紀まで機能していた。
7世紀に西方のアラビア半島からイスラームが勃興し、サーサーン朝を滅ぼすと、第3代正統カリフ・ウスマーンの時代からアラブ軍によるホラーサーン遠征が本格化するようになった。
649年にバスラ総督に任命されたアブドゥッラー・イブン・アーミルは自らアラブ軍を率いてホラーサーン諸都市を征服し、ヘラートを征服したのちにメルヴの住民は和平条約を求めてイブン・アーミルに投降し、メルヴはアラブの支配下になった。
8世紀になるまでマーワラーアンナフル、アフガニスタン遠征の拠点となる。
この頃からメルヴはアラビア語でマルウ・アッシャーヒジャーンと呼ばれるようになった。
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